上市・下市の古い町並み(重要伝統的建造物群保存地区)には、江戸時代後期の町並みのほぼ全域が残っており、当時の都市機能に応じた様々な形式の建造物が見られます。本町通りの中央部は主屋、座敷、蔵を連ねた多棟連結型の町屋が多く、南北端で独立型町屋や妻入りの町屋が見られます。横丁には、屋敷型の町屋や長屋もあります。 |
町の中心になる本通りは、寺山に沿ってゆるく曲がっています。通りの北端は恵比須社、南端は町家に突き当たって直角に曲がり、全体の見通しを妨げています。このように主要の街路の見通しを避けるのは、近世初期の町づくりによく用いられる技法で、本通りにはその形が実に良く残っています。本通りの両側に並ぶ家は、田棟連結型の大きな町屋が多く残っています。
春風館の通りは、春風館の向かい側が蔵を転用した住居です。自動車の通らなかった江戸時代の横丁は狭く、春風館の高い塀や、長屋門の格子、蔽のしっくい壁が往時の雰囲気を伝えています。
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この家は竹原の町並みの中でも、独特の雰囲気をもっています。入母屋(いりもや)造り、平入り、間口七間のつし二階の主屋の裏側に、平行にもう一棟、本瓦葺の建物とその二棟を直角の角屋(つのや)でつないだ、表屋(おもてや)造りとなっています。
建築は江戸末期(1820頃)のものを明治12年(1879)に全面的な改造を行い、現在の形となりました。「てり・むくり」をもった波うつような独特の大屋根、
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その下のうぐいす色の漆喰(しっくい)、大壁造り、塗込めの窓額つき菱格子(ひしこうし)の出窓、ゆるやかにカーブした本瓦葺の下屋(げや)、彫をもった出格子(それを支えている受木の彫り物)、向(むこ)う店の下見板(したみいた)の上の与力(よりき)格子など、非常に華やかな建築意匠です。座敷は全体が数寄屋(すきや)風の意匠で統一されています。初代は延宝2年(1674)広島から移住、沢田屋と称して塩田の必需品である薪問屋−石炭問屋を業とし、塩田経営、廻船業、醸造業と多角経営を行うかたわら、下市庄屋、割庄屋、竹原塩浜庄屋、竹原町長などをつとめるとともに文化活動を行いました。(入館料大人200円)
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この旧宅は日本外史の著者として知られる頼山陽の祖父、頼惟清が紺屋を営んでいた家です。
安永4年(1775)頃の建築。入母屋塗込造、本瓦葺の母屋と単層屋根、切妻造本瓦葺の離れ座敷からなり、屋根が本瓦葺であること、塗篭が極めて厚いこと、袖壁をもっていることなど、江戸時代の商家の老舗の特徴が見られます。大戸から入ると、間口一間半の大きな土間が紺屋であったことを物語り、右側の八畳は、紺屋の店舗であったと思われます。裏庭の詩碑は山陽の詩です。
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頼山陽の叔父、頼春風の家で、長屋門と玄関構えをもつ武家屋敷風の建物だけがドマを持っています。奥に祠堂として茶室を持ち数奇屋風の意匠に統一され、茶人不二庵の設計と伝えられています。建物は天明元年建築のものが安政元年(1854)に焼失し、安政2年(1855)再建されました。春風(1753〜1825、通称松三郎、名惟彊、字千歳)は大阪で医学と儒学を学び、安永2年(1773)帰郷し医業を開業しました。安永末年(1780)には塩田経営に乗り出し、天明元年(1781)には春風館を建築。紺屋は叔父伝五郎にゆずりました。
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